伊能忠敬 |
人生50年と言われていた時代に、50歳過ぎて隠居の身になってからの |
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「千葉県山武郡九十九里町小関」と言う、雑木林と田畑に囲まれた小さな集落に「伊能忠敬記念公園」と言う、小さな公園があります ここが忠敬の生まれた故郷なのです 彼は延享2年(1745)2月11日、この地、 |
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この公園内には、昭和11年に建立された「伊能忠敬先生出生之地」という碑が建立されています | |||
現在の山武郡九十九里町小関(当時の山辺郡小関村)の網本である「小関五郎右門家」に延享2年(1745)2月11日、三人兄弟の末っ子として生まれた三次郎が後の忠敬です
父親は山武郡横芝光町小堤(おんずみ)当時の「武射郡小堤村」の神保家の三男である貞恒が婿として迎えられられました 三治郎が6才の時に母みねが亡くなります こうして三次郎は両親のいない小関家で生活することになり、不遇のうちに成長して行きます
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またその当時の幕史 森覚蔵が公用のため神保家に滞在したことがありますが、その三次郎の才能に驚いたと記されています 「達」(みち)は先夫景茂に死別して、すでに24歳でした。
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名前も三郎右衛門忠敬と改名します。 こうして伊能家をついだ忠敬は、専ら家運の再興に努力して、或いは村役人として村政にに尽力して、また特に難民の救済にすこぶる成果を上げました 伊能家は佐原の小野川沿いの佐原の有力な家の一つであり、酒造業や米穀売買業などを営んでいたが、忠敬が婿入りするころには家運が傾き始めていたといいます。 また、天明の飢饉のときに、忠敬は苦しんでいる人々にお金を貸したり、米を安く売ったりしました。 |
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還暦になった忠敬は家督を長子景敬に譲ります 妻は山辺郡東士川村、小川治兵衛の娘をいただき、家の安泰を見届けて隠居生活に入ります こうして忠敬は江戸に向かい、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となりました。 |
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こうして寛政12年(1800年)56歳の時に、第1次測量を蝦夷地(北海道)から開始します。 これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようです。 こうして開始された測量は、あまりにも正確なため、国家的プロジェクトへと発展して行きます |
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忠敬はもちろん郷土、九十九里浜の浜辺も歩いて実測しています。 その様子を「沿岸測量日記」から抜粋すると、次のようです。 「享和元年(1801)6月19日深川出立。行徳本村名主宅止宿、それから検見川・寒川・五井・木更津・・金谷と内湾を進み房州を回って外洋沿岸を夷隅・長生を経て山武へ到着したものである」 「7月15日・・山野辺郡今泉村・真亀村・不動堂村・・・・・夫より片貝村・作田村・本須賀村7ツ頃に着、止宿五左衛門、測器村々継立延引 同16日。朝より晴れ,六ツ半頃本須賀出立。井の内村、松ケ谷村、小松村、木戸村、屋形村午前に着、止宿名主海保兵右衛門此所より、同郡小堤村へ立寄、七ツ半ニ帰る。夜晴、測量。此所迄、上総国武射郡 以下略 |
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概略では、その後の井の内・松ケ谷・小松・木戸・屋形・を測量して「海保兵右衛門」宅に宿泊されたように記述されています |
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こうして忠敬は1816年(71歳)まで日本全国各地を巡り地図を作成するときの基となる測量を行いました。 |
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『参考文献・横芝町史』 |