伊能忠敬

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人生50年と言われていた時代に、50歳過ぎて隠居の身になってからの
16年に渡り日本列島行脚の旅をして日本地図を完成させた伊能忠敬

彼の出生と成長を、彼の故郷九十九里町にある小さな公園を背景に記してみました

 

 


「千葉県山武郡九十九里町小関」と言う、雑木林と田畑に囲まれた小さな集落に「伊能忠敬記念公園」と言う、小さな公園があります

ここが忠敬の生まれた故郷なのです

彼は延享2年(1745)2月11日、この地、
当時の地名では「上総国山辺郡小関村」の小関家に生まれました

この公園内には、昭和11年に建立された「伊能忠敬先生出生之地」という碑が建立されています

現在の山武郡九十九里町小関(当時の山辺郡小関村)の網本である「小関五郎右門家」に延享2年(1745)2月11日、三人兄弟の末っ子として生まれた三次郎が後の忠敬です

父親は山武郡横芝光町小堤(おんずみ)当時の「武射郡小堤村」の神保家の三男である貞恒が婿として迎えられられました
母親は小関家の娘みねです

三治郎が6才の時に母みねが亡くなります
そこで小関家ではみねの弟が小関家を相続することになりました
当時の九十九里方面では広く長子相続制度が行われていたからです

そこで父は、幼い三治郎だけを小関家に残し、兄と姉だけ連れて、生家である神保家に戻ります
父の実家も小関家に劣らぬ名門で、大地主でした

こうして三次郎は両親のいない小関家で生活することになり、不遇のうちに成長して行きます

やがて神保家から分家した貞恒は、三治郎が11才の時に引き取ります
しかし父親の元に引き取られても父には新しい妻がいて、その後も三次郎には幸せであったとは言えないものでした

 


不遇の環境にあっても三治郎は、小さい時から学問が好きで、特に算術に優れていました。
それには、彼の育った環境によるところが多いように思われます。

干鰯の産地である九十九里の村々には商人の出入りが激しく、網元の小関家はこれらの商人と深くつきあっていました。
また、上総・下総の農村には和算がひろがっており、三治郎はこのような環境の中で育ったのでした。

父の貞恒は、分家してから塾を開きました。相当な教養人であったと伝わっています。
三治郎は父からも学問の基本を教わりました。

またその当時の幕史 森覚蔵が公用のため神保家に滞在したことがありますが、その三次郎の才能に驚いたと記されています

三治郎が13才の時、常陸土浦(茨城県土浦市)にある寺で算術を学び、さらに16才の時には、佐忠太と名乗り、
土浦の医師のもとで経学医書を学んだと伝えられています。
持ち前の勤勉さから、幅広く教養を身につけたのでした。

たまたま宝暦12年(1762年)の夏、現在の横芝光町坂田、当時の香取郡坂田郷で土地改良事業があり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、若輩であるにかかわらず、現場監督を頼まれています

この時の仕事ぶりが評判になり、神保家と伊能家の両家と深い親戚関係にあった多古町南中(当時の香取郡南中村)の平山藤左衛門の目に留まり、伊能家への婿入りが決まりました。


佐忠太は、いったん藤左衛門の養子となった形で、改めて佐原の伊能家に婿入りしたのでした、佐忠太18才の時です。
婿入り先は伊能家の娘は「達」(みち)でした。

「達」(みち)は先夫景茂に死別して、すでに24歳でした。

名前も三郎右衛門忠敬と改名します。
こうして伊能家をついだ忠敬は、専ら家運の再興に努力して、或いは村役人として村政にに尽力して、また特に難民の救済にすこぶる成果を上げました

伊能家は佐原の小野川沿いの佐原の有力な家の一つであり、酒造業や米穀売買業などを営んでいたが、忠敬が婿入りするころには家運が傾き始めていたといいます。
そこで忠敬は薪や炭などの新しい事業を始めたり、米の売買も地元だけではなく関西方面にまで手を伸ばしたりして、家業を盛んにしました。

また、天明の飢饉のときに、忠敬は苦しんでいる人々にお金を貸したり、米を安く売ったりしました。
そのため、佐原村民には餓死者が一人も出なかったといわれています。

還暦になった忠敬は家督を長子景敬に譲ります
妻は山辺郡東士川村、小川治兵衛の娘をいただき、家の安泰を見届けて隠居生活に入ります

こうして忠敬は江戸に向かい、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となりました。
至時は天文学の第一人者とはいえ、まだ32歳。

一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳になり、忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。
しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会です。

普通なら、20歳も年下の若者に頭を下げて弟子入りを請うことに相当なる抵抗があるはずです。
しかし忠敬は違いました。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことでした!

至時にあっては忠敬の入門など“年寄りの道楽”だと思っていたと思われます。
しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て感服して、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになりました。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。

こうして寛政12年(1800年)56歳の時に、第1次測量を蝦夷地(北海道)から開始します。
これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようです。
こうして開始された測量は、あまりにも正確なため、国家的プロジェクトへと発展して行きます

忠敬はもちろん郷土、九十九里浜の浜辺も歩いて実測しています。
その様子を「沿岸測量日記」から抜粋すると、次のようです。

「享和元年(1801)6月19日深川出立。行徳本村名主宅止宿、それから検見川・寒川・五井・木更津・・金谷と内湾を進み房州を回って外洋沿岸を夷隅・長生を経て山武へ到着したものである」

「7月15日・・山野辺郡今泉村・真亀村・不動堂村・・・・・夫より片貝村・作田村・本須賀村7ツ頃に着、止宿五左衛門、測器村々継立延引
夜に入り着に測量セズ」

同16日。朝より晴れ,六ツ半頃本須賀出立。井の内村、松ケ谷村、小松村、木戸村、屋形村午前に着、止宿名主海保兵右衛門此所より、同郡小堤村へ立寄、七ツ半ニ帰る。夜晴、測量。此所迄、上総国武射郡

以下略


 

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概略では、その後の井の内・松ケ谷・小松・木戸・屋形・を測量して「海保兵右衛門」宅に宿泊されたように記述されています

上記の日記を見るかぎりにおいては、自分の生まれ育った小関の実家には立ち寄っていないようです

屋形で宿泊先であった「海保兵右衛門」は父親の親戚筋になります
忠敬はその後に小堤の実家には立ち寄っています

 

こうして忠敬は1816年(71歳)まで日本全国各地を巡り地図を作成するときの基となる測量を行いました。
地図は伊能忠敬が73歳(1818年)没した後の3年後(1821年)に彼の弟子達によって
「大日本沿海輿地全図」 として完成しました。
現在の人工衛星での測量と比較しても、若干のズレが有るだけです。

『参考文献・横芝町史』