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詩人 斉藤信夫について |
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のどかな田園風景が広がる九十九里平野 その背後に広がる九十九(つくも)丘陵から臨める太平洋 そんな千葉県山武市(旧成東町)は「里の秋」が生まれた所でもあります この歌の作詞した斉藤信夫は戦中戦後を通じて山武、東金市を中心に 小・中学校教師の傍ら、好きな童謡の詩を書いていました。 そんな斉藤信夫の素顔を紹介致します |
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小学校時代を過ごした南郷小学校とその校庭にある石碑 |
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| 同氏は明治44年3月3日に現在の 山武市五木田」 当時の山武郡南郷村五木田に、「父親美樹、母親きよ」 の農家の長男として生まれました。 南郷小学校、成東中学校(現・成東高校) 千葉師範(現・千葉大学教育学部)を卒業 |
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| 詩を書くことの好きだった斎藤は教務の合間を見ては作詞をして、あちこちの詩集に投稿していました。 そして、毎日一つ童謡を作り続けていました。 昭和12年頃、斉藤はいつも雑誌に童謡の作曲の投稿をしてくる 「海沼實」 という、 童謡作曲家を知りました。 当時の「海沼實」も、まったくの無名で「音羽ゆりかご会」を立ち上げたばかりでした。 そんな海沼を斉藤は東京護国寺に訪問しました。 護国寺が「音羽ゆりかご会」の練習場だったからです。 ここで里の秋が出来上がるまでのエピソードがあります。 初めて出会った海沼に斉藤は里の秋の元になる「星月夜」を手渡しました。 3) きれいなきれいな椰子の島 しっかり護ってくださいと あゝ父さんのご武運を今夜もひとり祈ります 若い斉藤は日米開戦と言う大きな事件に衝撃を受けて、身も心も日本のためにと その時は意見が合わず別れた二人ですが、その後も斉藤とは交流は続き、 海沼は教員として戦争に加担した自責の念にかられ、教職をやめてぶらぶらしている 当時「川田」は小学5年生でした。 4年間眠り続けた童謡がようやく日の目をみたのです。 いえ・・敗戦にうちひしがれていた日本中の人々の心が放送により浄化されました。 次の一瞬からNHKへの電話が殺到しました。さっき放送された曲に対する問い合わせばかりです。 日本国中が、肉親の安否を気遣いラジオに聞き入っていたこの時に、この情感たっぷりのメロディが流れて、 「里の秋」は多くの人の要望に応え、翌1月15日から始まる告知番組「復員便り」のテーマ音楽として
余談ながら,此の番組の反響の中に一般民間人の安否を尋ねる声も多く、 戦争終結による外地からの引き揚げ、戦災による消息不明者などでこの告知板番組は34%という しかし斉藤の心は晴れません。 と言うのも自分は教育者として、今まで少なからず戦争へと加担していた自分に対する 教育者の浪人時代に、海沼、斉藤、川田の三人コンビで次々とヒット曲を生みだします。 「蛙の笛」や「夢のお馬車」などです。時代がまた、そういうものを要求していたのかも知れません。 「当時を回想して、斉藤は次のように書いています」 終戦の翌年三月、私は私なりに敗戦の責任をとる意味で教職を退いた。 それが、悶々としてやるせない胸にはーガンバレヨ、ガンバレヨ、と聞きとれるではないか。 よし頑張ろう、ついては、優しく励ましてくれた蛙たちに、思い切り早春の夜の歌をプレゼント 悶々と数年間過ごした彼でしたが、やはり自分の天職は教育であると感じて、再び教員に戻ります。 また後になって斉藤さんは当時を振り返って、こうも語っています 「あの自信を失っていた時期に、海沼さんが声をかけてくれたこととマアちゃん(川田正子さん)を
昭和29年からは月刊童謡詩 「花馬車」 を刊行。昭和36年(49歳)に作品1万編を志し、 三人コンビはすべて天空で、一体どんな話をしているのでしょうか。 とかくに汚れやすい大人の世界にあって、いつも綺麗な子供の目線にたって (参照文献) 子ども心を友として 斉藤信夫
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