伊藤左千夫について

野菊の墓   隣の嫁

 

成東の停車場をおりて、町形をした家並みを出ると、
なつかしい故郷の村が目の前に見える。

十町ばかり人目に見渡す青田のたんぼの中を、まっすぐに通った県道、
その取り付きの人構え、わが生家の森の木間から変わりなき
家倉の屋根が見えて心も落ち着いた。

伊藤左千夫「紅黄録」より

 

 



「左千夫」の父「良作」は当時の武射郡馬渡村、現在の山武市松尾町高富字馬渡の藤崎家次男として生まれた。
現在の藤崎家


藤崎家の長男「弥惣治」は藤崎家の後をとり、次男であった左千夫の父親「良作」は
成東の伊藤家の娘「くま」の婿養子に入り、三男「子之吉」は松尾の花澤家の婿養子となった。

伊藤家のくまは先に今関家より登を婿に迎えてあったが登が早死にしたので良作を婿に迎え入れたものである。
先夫とくまとの間に長男広太郎、良作とくまとの間に次男定吉がいた。

所が今度はくまが病死してしまう。
家系を重んじる伊藤家では、親戚筋にあたる横芝の三木家から後妻になつを嫁に迎え入れる。

良作となつとの間に二人の男の子が生まれる。
三男房吉、そして四男幸次郎である。
この四男幸次郎が後の伊藤左千夫である。

良作は気質の柔らかな実直な人であったと記されている。
伊藤家にあっては農業を、そのかたわら小学校教員、役場の書記などを勤め、公職を退いてからは
菩提寺で漢学と書道を教えて子弟の教育にあたった。
左千夫の文学好きもこのような父親の影響が強かったのではないかと思われる。

   

少年期

左千夫の幼少期の名前は幸次郎であった.。
母親なつは横芝の三木家より嫁入りしているが、武士をの流れを引き継ぐ家系らしく、気が強く躾には特に厳しい女性であったが、左千夫に対しては特別な愛情をもって育てられた。
また長兄の嫁「つね」にもとても可愛がられて左千夫は自由で伸び伸びした幼年期を過ごした。
明治六年左千夫が10歳のころ、折りよく明治政府より学制令が施行され嶋(現在の山武市島)に嶋小学校が開校された。
小学校とは名ばかりで法華寺の本因寺を借り受けての学校であった。当時を回想して左千夫は次のように書いている。「吾故郷九十九里辺では、明治六年に初めて小学校ができた。基前年は予が九つの年で基時までも予は未だ学文といふことに関係しない」と記している。

当時は誰でも小学校に行けると言うわ訳ではなかったが、左千夫は学問に理解のあった父親と、経済的にも恵まれていた家庭環境もあって学校に行くことができた。
小学校で三年間学んだ左千夫は、農業に従事するかたわら自宅近くに佐瀬春圃の開いた塾に通う。
向学心に燃える左千夫は少年期のこれらの学問の蓄積からやがて議論好きな性格と文章に見られる理屈っぽさを形作られていったのではないかと想像させる。
左千夫の少年時代は我が儘、悪戯、勝気で暴れん坊、自信家、その中に垣間見られる人一倍強い感受性を持つ少年と形成されてゆく。





青年期

当時の日本は国会開設や自由党の結成など国家意識が近代化に乗り遅れまいと大変革が行われた時代である。
それらの時代の流れに刺激を受けた十七歳になった左千夫は元老院に二度の建白書を送っている。
建白書は漢文体の堂々たる文章で「富国強兵に関する建白書」と題して条約改正に憤慨した左千夫が十ヶ条の項目を用意して屈辱的条約に憂いて提出したものである。
そんな左千夫であるから一生を農事にいそしむというには自分でも考えていなかったのではないかと思われる。
当時の考え方では本来ならば農家の次男以下は婿養子に行くのが普通であった。
その当時の左千夫の口癖は「野に労なくんば君子を案ずること能わず」で何事も熱心で、休むことが大嫌いだったと言われている。
明治14年ついに農業と決別を意識した左千夫は上京し、開校したばかりの明治法律専門学校(現在の明治大学)に入学する。
政治家を目指して勉学に励みだしたとたん眼病に冒される。病名は進行性近視、眼底充血であった。
医師には学問などとても無理との宣告が下り、やむをえず途中で退学。
失意のうちに帰郷した左千夫は当時のことをこのように記している。
「眼を病めば盲人になる人もいる。近視くらいなら結構じゃ。百姓の子が百姓するに不思議はない大望を抱いていても運が助けねば成就せぬもの。よしよしもう思い返して百姓するさ」と記している。
数年間を悶々と過ごす夢破れた左千夫ではあるがとても己を満足させるものではなかった。
明治18年1月、彼は誰にも言わず家出して再度上京する。
左千夫22歳、携え出たものは、現金1円、羽織1枚、書物は「日本政記」、「文章規範」,「八大家」だけであったと言われている。

 

 

再度上京

夢破れて帰省してのこの4年間、彼の外交的な性格からして農業への従事は彼の心の中の苦悩ではり、やりきれない敗北感であった。これを断ち切りたく彼は家出と言う非常手段を選択した。
当時の考え方からすれば家出というその行為は家族や親戚からは非難されることであった。
後になってその当時を振り返って左千夫は次のように記している。
「学問を止めたからとて百姓にならねばならぬと云うことはない。学問がなくとも出来ることが幾らでもある。近眼のために兵役免除となったを幸いに,予は再び上京をした。勿論老父母の得心ではない。暫らく父母に背くの余儀なきを信じて出走したのである。併し再度出京の自己の私心を満足させんとの希望ではない。(以下略)と記している。
また伊藤家に残した書置きには「東京に出ることについて、4−5年徴兵に行ったと思ってあきらめてほしいの文言が残されている。
これからの28歳位までの左千夫の6年間に関しての左千夫の記録は少ない。
生きることに精一杯であった左千夫には書くと言う暇さえなかったのであろう、労働者として東京や神奈川の牧場で懸命に働いた時期である。
この間にも生家や親戚には無事に働いていることや乳牛等についても所管をだけは少し残している。知識欲旺盛な左千夫は乳牛飼育のついての知識を働きながら着々と蓄えていったのがそれらの所管の記録から分かる。
左千夫の性格からして熱心に働くと同時に事業家としての道を切り開く新たな希望の6年間であったと想像される。

独立

明治22年春左千夫28歳、努力の甲斐あって牛乳採取業にて独立する。
場所は本所茅場町、現在の錦糸町駅前広場からやや両国駅に寄った場所にあった。
その場所に3頭の乳牛を買い入れて四畳半一間と土間のある仮小屋を建てて屋号を「乳牛改良社」と名前をつけた。
その秋に郷里の山武郡上堺村(現在の横芝光町上堺)の伊藤重左衛門の長女「とく」結婚する。

以下の写真は現在の錦糸町から亀戸界隈を生活の基盤としていた左千夫の記念碑です
左三枚は錦糸町駅前界隈に建つ左千夫の石碑、右は亀戸普門院、伊藤左千夫の墓です

錦糸町在住のMさんに撮影お願いしました

伊藤並根との出会い

仕事も順調に経過する左千夫は明治26年頃に同業者でもあり、歌人でもあり住まいも近くの伊藤並根と親交を持ち、二人は互いに歌や茶の湯を通じて深まっていった。
並根は歌会では面識も多く、二人は共にあちこちに歌会などに参加することになっていった」。

正岡子規との出会い

そんな中、明治33年左千夫37歳の時、彼は根岸の正岡子規の自宅を訪れる機会があり、左千夫は子規を師とする新しい出発の日となった。
正岡子規の短歌革新の思想に共鳴した左千夫は、子規の門下に入り本格的な作歌活動を始めた。
その前後に詠んだとされる「牛飼が歌よむ時に世の中の 新(あらた)しき歌大いに起る」は彼の気持ちをおおらかに表現した万葉風の名歌として知られる。
所が
子規の門下に入るも間もなく入門2年めに子規が急死してしまう。
左千夫の失意落胆は大きなものであったが、やがて悲嘆から立ち直り子規の精神を引き継いで行くことを示す二か条の決意書を内外に示した。
概要は万葉集以降1000年超の俳人の偉人である正岡
子規をより探求し、子規の望んでいた新しい時代を切り開こうとしていた思いを己が引き継ぐと言う内容であった。

 

同時に根岸派全体の進むべき道を、また子規の教えを厳しく守りその道程を踏み外さないように
厳しく守って行こうという内容のものであった。
ゆえに左千夫なくしては子規の継承はありえなかったし、近代短歌の道筋もどうなっていたか分からないものであった。
40歳代は左千夫の全盛期である
この期間に左千夫は数十篇の小説を書きまくっている。
特に明治39年1月「ホトトギス」に発表した野菊の墓は夏目漱石などの激賞を受けて文壇にも広く、長く
名作の名をほしいままにした。
そのほかには「隣りの嫁」、「春の海」、「紅黄録」等幾多の名作を残した。
また短歌においては子規没後かねてから懸案の機関誌「馬酔木」から「アカネ」に至り、

ついに明治41年左千夫の同郷人蕨真(現在の山武市植谷出身)と共に「阿羅々木」を創刊する。
そして門下より、島木赤彦、斉藤茂吉、小泉千橿、中村憲吉、土屋文明、等多くの大歌人を輩出する。
そんな左千夫も大正2年、脳出血で50年の生涯を閉じた。
左千夫が始めて正岡子規と出会い(37歳)そして生涯を閉じる(50歳)
その間はわずか13年しかない。
このわずかな年月の間に左千夫は精力的に短歌の世界や文人として偉大な仕事をなしえている。