伊藤左千夫について |
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成東の停車場をおりて、町形をした家並みを出ると、
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少年期 |
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当時は誰でも小学校に行けると言うわ訳ではなかったが、左千夫は学問に理解のあった父親と、経済的にも恵まれていた家庭環境もあって学校に行くことができた。 |
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青年期
当時の日本は国会開設や自由党の結成など国家意識が近代化に乗り遅れまいと大変革が行われた時代である。 |
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再度上京 夢破れて帰省してのこの4年間、彼の外交的な性格からして農業への従事は彼の心の中の苦悩ではり、やりきれない敗北感であった。これを断ち切りたく彼は家出と言う非常手段を選択した。 当時の考え方からすれば家出というその行為は家族や親戚からは非難されることであった。 後になってその当時を振り返って左千夫は次のように記している。 「学問を止めたからとて百姓にならねばならぬと云うことはない。学問がなくとも出来ることが幾らでもある。近眼のために兵役免除となったを幸いに,予は再び上京をした。勿論老父母の得心ではない。暫らく父母に背くの余儀なきを信じて出走したのである。併し再度出京の自己の私心を満足させんとの希望ではない。(以下略)と記している。 また伊藤家に残した書置きには「東京に出ることについて、4−5年徴兵に行ったと思ってあきらめてほしいの文言が残されている。 これからの28歳位までの左千夫の6年間に関しての左千夫の記録は少ない。 生きることに精一杯であった左千夫には書くと言う暇さえなかったのであろう、労働者として東京や神奈川の牧場で懸命に働いた時期である。 この間にも生家や親戚には無事に働いていることや乳牛等についても所管をだけは少し残している。知識欲旺盛な左千夫は乳牛飼育のついての知識を働きながら着々と蓄えていったのがそれらの所管の記録から分かる。 左千夫の性格からして熱心に働くと同時に事業家としての道を切り開く新たな希望の6年間であったと想像される。 |
独立 明治22年春左千夫28歳、努力の甲斐あって牛乳採取業にて独立する。 以下の写真は現在の錦糸町から亀戸界隈を生活の基盤としていた左千夫の記念碑です 錦糸町在住のMさんに撮影お願いしました |
伊藤並根との出会い
仕事も順調に経過する左千夫は明治26年頃に同業者でもあり、歌人でもあり住まいも近くの伊藤並根と親交を持ち、二人は互いに歌や茶の湯を通じて深まっていった。 |
正岡子規との出会い
そんな中、明治33年左千夫37歳の時、彼は根岸の正岡子規の自宅を訪れる機会があり、左千夫は子規を師とする新しい出発の日となった。
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同時に根岸派全体の進むべき道を、また子規の教えを厳しく守りその道程を踏み外さないように 厳しく守って行こうという内容のものであった。 ゆえに左千夫なくしては子規の継承はありえなかったし、近代短歌の道筋もどうなっていたか分からないものであった。 40歳代は左千夫の全盛期である この期間に左千夫は数十篇の小説を書きまくっている。 特に明治39年1月「ホトトギス」に発表した野菊の墓は夏目漱石などの激賞を受けて文壇にも広く、長く 名作の名をほしいままにした。 そのほかには「隣りの嫁」、「春の海」、「紅黄録」等幾多の名作を残した。 また短歌においては子規没後かねてから懸案の機関誌「馬酔木」から「アカネ」に至り、 ついに明治41年左千夫の同郷人蕨真(現在の山武市植谷出身)と共に「阿羅々木」を創刊する。 そして門下より、島木赤彦、斉藤茂吉、小泉千橿、中村憲吉、土屋文明、等多くの大歌人を輩出する。 そんな左千夫も大正2年、脳出血で50年の生涯を閉じた。 |
左千夫が始めて正岡子規と出会い(37歳)そして生涯を閉じる(50歳) その間はわずか13年しかない。 このわずかな年月の間に左千夫は精力的に短歌の世界や文人として偉大な仕事をなしえている。 |