旧中村檀林正東山日本寺は、仏教史上有名な日蓮宗の学校です。
慶長初期(江戸時代)より明治8年まで続き盛時には36の学坊が軒をつらね数百の学僧が全国から群集したといいます。
学僧たちは南北に別れて勉強に励み、春と秋の2回『新説(しんだんぎ)』という団体戦の討論を繰り広げました。
討論のテーマは日蓮宗の教義のほか世間での出来事などを随時盛り込み、席上活躍のめざましかった学僧は、
番付表に名札があげられました。山門に掲げられている『正東山』の扁額は本阿弥光悦の真筆といわれ、
日本三額の一つに挙げられています。
日本寺としては1319年の創建になる日蓮宗のお寺で、1599年に中村檀林という、学僧たちの勉学の場になりました。
檀林はもともとは「栴檀(せんだん)林」として、寺院そのものを指す言葉だったようですが、時代とともに
僧侶養成の学問所をさす言葉になりました。
「栴檀は双葉より芳し」の栴檀ですが、集まった学生たちは、双葉の頃から芳しい成績を表したのでありましょうか
明治の初期まで続き、隆盛期には全国から集まった学僧が、千人近くいたと伝わります。
学業のテーマは日蓮宗の教義だけでなく、社会問題にまでおよぶ広いテーマにまで議論が行われ、
活躍した学僧は名札を掲げて称えられました。
また、多くの村人が見学に押し寄せたといいますから、現代風にいうなら、パネルディスカッションのようでもあり、
大学が開く社会人セミナーのようでもあります。
山門の「正東山」の扁額は、本阿弥光悦の真筆といわれ、日本三額のひとつに数えられています。
三額って言われても、他の二額がどんな並びなのか分からないのですが、光悦はたしかに日蓮宗と
縁の深い芸術家ですし、檀林発足の時期に活躍した人ですから、
真筆ということはあっても不思議はなさそうです。
このほか、日本寺には水戸の黄門様・徳川光圀ゆかりの屏風も所蔵されているそうです。
同寺は、飯高檀林(立正大学の前身)と小西檀林とならぶ関東の三大檀林(僧侶の学問所)の一つであり
中村檀林(なかむらだんりん)からも、幾多の優れた学僧を輩出しました。
今日も盛んな「法類」が、檀林に学ぶ学生が集まった宿舎(庵)に由来することから、その果たした役割は大きい。
(歴史)
嘉暦年中(1324-28)中山三世浄行院日祐、領主千葉胤貞の帰依を得て東福寺を創建する。
東福寺13世(中山10世)賢聖院、日本寺と改号。
慶長4年(1599)日円が中村檀林を開く。
寛永7年(1630)「身池対論」、日充は奥州岩城へ追放。※遠寿院日充(能登滝谷妙成寺12世)
同 中山隠居寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀へ追放
本圀寺派檀林、明治焼失。
|