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「左千夫」の父親「良作」は、現在の山武市松尾町藤崎家の次男として生まれました
現在の藤崎家

藤崎家の長男「弥惣治」は藤崎家の後をとり、次男であった左千夫の父親「良作」は
成東の伊藤家の娘「くま」の婿養子に入り、三男「子之吉」は松尾の花澤家の婿養子となった。
伊藤家のくまは先に今関家より登を婿に迎えてあったが登が早死にしたので
良作を婿に迎え入れたものである。

先夫とくまとの間に長男広太郎、良作とくまとの間に次男定吉がいた。
所が今度はくまが病死してしまう。
家系を重んじる伊藤家では、親戚筋にあたる横芝の三木家から後妻になつを嫁に迎え入れる。
良作となつとの間に二人の男の子が生まれる。
三男房吉、そして四男幸次郎である。
この四男幸次郎が後の伊藤左千夫である。
良作は気質の柔らかな実直な人であったと記されている。
伊藤家にあっては農業を、そのかたわら小学校教員、役場の書記などを勤め、公職を退いてからは
菩提寺で漢学と書道を教えて子弟の教育にあたった。
左千夫の文学好きもこのような父親の影響が強かったのではないかと思われる。
左千夫の幼少期の名前は幸次郎であった.。
母親なつは横芝の三木家より嫁入りしているが、武士をの流れを引き継ぐ家系らしく、気が強く躾には
特に厳しい女性であったが、左千夫に対しては特別な愛情をもって育てられた。
また長兄の嫁「つね」にもとても可愛がられて左千夫は自由で伸び伸びした幼年期を過ごした。
明治六年左千夫が10歳のころ、折りよく明治政府より学制令が施行され
嶋(現在の山武市島)に嶋小学校が開校された。
小学校とは名ばかりで法華寺の本因寺を借り受けての学校であった。
当時は誰でも小学校に行けると言うわ訳ではなかったが、左千夫は学問に理解のあった父親と、
経済的にも恵まれていた家庭環境もあって学校に行くことができた。
小学校で三年間学んだ左千夫は、農業に従事するかたわら自宅近くに佐瀬春圃の開いた塾に通う。
向学心に燃える左千夫は少年期のこれらの学問の蓄積からやがて議論好きな性格と
文章に見られる理屈っぽさを形作られていったのではないかと想像させる。
左千夫の少年時代は我が儘、悪戯、勝気で暴れん坊、自信家、その中に垣間見られる人一倍強い
感受性を持つ少年と形成されてゆく。
当時の日本は国会開設や自由党の結成など国家意識が近代化に乗り遅れまいと
大変革が行われた時代である。
それらの時代の流れに刺激を受けた十七歳になった左千夫は元老院に二度の建白書を送っている。
その内容は漢文体の堂々たる文章で「富国強兵に関する建白書」と題して条約改正に
憤慨した左千夫が十ヶ条の項目を用意して屈辱的条約に憂いて提出したものである。
そんな左千夫であるから一生を農事にいそしむというには自分でも
考えていなかったのではないかと思われる。
当時の考え方では本来ならば農家の次男以下は婿養子に行くのが普通であった。
その当時の左千夫の口癖は「野に労なくんば君子を案ずること能わず」で何事も熱心で、
休むことが大嫌いだったと言われている。
明治14年ついに農業と決別を意識した左千夫は上京し、開校したばかりの
明治法律専門学校(現在の明治大学)に入学する。
政治家を目指して勉学に励みだしたとたん眼病に冒される。
医師には学問などとても無理との宣告が下り、やむをえず途中で退学。
数年間を悶々と過ごす夢破れた左千夫ではあるがとても己を満足させるものではなかった。
明治18年1月、彼は誰にも言わず家出して再度上京する。
左千夫22歳、携え出たものは、現金1円、羽織1枚、書物は「日本政記」、「文章規範」,
「八大家」だけであったと言われている。
明治期の農家における家出とは、お家にとっては農家も継がず、反抗息子と見られたが
本人にとっては単なる反抗ではなく、近代化の波に揺れる農村社会の葛藤を映し出すものでした。 家族や地域からは「逸脱」として見られる一方で、
本人にとっては「自立」や「希望」の第一歩でもありました。
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