戦後の記憶

当時の家族構成

戦後いちばん賑やかな時期は昭和25年頃、私が10歳前後だった。
兄弟5人、父母、祖父  家族だけで8人
お手伝いさんが男女一人ずつ
冬場の11月から3月までは新潟から酒作りの蔵人が5−6人

総計15−6人。
これだけが一つ屋敷にいたのだ。

食事の時は交代で食べたり、お風呂は蔵人が最初だったと思う。
当時は副食も少なくお米の量も半端じゃなかった。
お茶も自家製で、お茶の葉摘み取り時期には女の人たちがお小遣い稼ぎに
1週間ほど摘み取りにきていた。

出き上がったお茶は18リットル缶 3−4本ほどあったが
すべて自家使用であった。

これがお茶をつくるための道具「ほいろ」
下に炭火をたき、和紙を何枚も重ね貼り付けて出来た上に
お茶の葉を乗せて、時間をかけて葉をもみながらゆっくりお茶を作ります。
毎年男のお手伝いさんが、専門に作っていました。

蔵人の生活
蔵人たちは毎年11月から3月頃まで約半年間、新潟からやってきた。
当時は交通の便も悪かったので、春まで帰郷することもできず
酒造りに励んだ。

途中から電車も高速化されて、お正月は故郷へ帰るようになってきた。
越後のお土産はいつも笹餅だった。

蔵人は厳格な身分制度があって、杜氏(おやかた)頭(かしら)
釜屋、精米があって、各々の分際で作業にあたった。

蔵人の宿泊場所には休憩所(ひろしき)があって、時々遊びに行った。
親方には可愛がられた。

蔵人たちは毎朝頃には起きて、酒米をふかす仕事をしていた。
一回で100キロ以上ふかしたと思う。
ふかし具合を見るために、親方はふき上がった酒米を板でこねって
チェックするのだが、これがまた格別に美味しくて、いつもおねだりに行った。

蔵の中は細菌を嫌って滅多に入れてもらえなかった。
入る時も蔵内に用意された草履に履変えて入った。

悪ガキたちと遊んだ記憶

我が大堤区は自分より上の男の子が多くて、それも悪ガキばかり。
悪い遊びは沢山覚えさせらた。

ある時悪ガキの仲間に誘われて、学校をさぼって山で野鳥取りで遊び惚けていた。
途中で雨が降ってきた。
おふくろが学校へと傘を届けに来た。

学校の帰る時間を見計らって 「ただいまー」
当然ながら・・散々叱られた おこられた!!

当時は児童虐待なんて話はなかったので、数時間柱に縛りつけられた。

余談だが終戦後、子供たちが野鳥を捕まえる遊びは一般的だった。
今ではこんなことした大変なことになるが終戦後の時代では、
子供たちは自然の中で遊ぶことが多く、野鳥を捕まえることもその一環。

子供たちは野鳥を捕まえるために、かすみ網や、ざるを利用して
中の餌を食べるざるが落ちて捕まえられる簡単な罠、

手作りの鳥かごの中に、おとりの野鳥を入れて相手を呼び寄せ、手前の木の枝に
松ヤニから作った接着剤(鳥もち)をなすりつけて、野鳥を捕まえる原始的な方法など。

鳥がわなにかかると、子供たちは興奮して捕まえたものです。

食料が不足していたため、子供たちは野鳥を捕まえて食べることもあった。
また、野鳥の羽根や卵を使った遊びや、飼い鳥として育てる楽しみもあった。

悪ガキたちはもっと悪い遊びをしていた。
信じられないだろうが、鉄砲を作っていた。

自分も銃床を作った。
木を削って自分の体に合わせて、格好良く仕上げるのだ。
紙やすりで仕上げて綺麗に出来上がるのが嬉しかったが、実際の銃には
他の人の作ったものを使った。

銃身はこうもり傘の芯等を使った。
引金の部分はゴムで引っ張り、引金を引くと外れる仕組みになっていた。
発火部分は使い終わった薬莢を見つけて、かんしゃく玉をたたくと
発火して、銃身内の火薬が爆発する仕組み。

ある時悪ガキ友が銃口から火薬をつめていて、強くつめたので発火してしまい
怪我をしたこともあった。
まだ銃弾をつめる前だったので、事なきを得ましたが。

銃弾は自分たちで作っていた。
悪ガキはなまりを溶かして薬品を使ってやっていたようだが、自分には分からない。
こんなもので野鳥を捕まえるはずはないのに、時々板に向けて撃って
威力を試していた。

銃床作りで思い出したが、自分は一人で木を削ってゼロ戦を作って
遊んだ記憶がある。
別に設計図があるわけではなく、写真等を見て作ってい

たように思う。
10機近く作ったと思ったが、当然今ではない。

大晦日の行事・かがり火

冬休みに入るとすぐ、かがり火の準備が子供たちの仕事
区内を一軒ずつリヤカーで回って、燃し木を集めるのだ。
燃し木のない家は、お金を頂いた。

中には気の利いたワルがいて、お金をくれる家は決まっていたので
自分でお金を集めて、一人でくすねたのもいた。

かがりの火が元日まで持たせるためには集めた木だけでは足りない。
そこで杉の木を一本切るのが恒例の行事。
子供たちにとっては大変だったので、大人に手伝ってもらった。

かがりの火が周囲に燃え移らないように皆で見張って周囲を燃やすのだが
風の強い年に、後ろに火が回って、火災を起こしたこともあった。

大晦日の晩には、火を見張るために横穴を掘って、子供たちは
その中で一晩を過ごした。

時代は変わって今では少子化のうえ、子供たちは行事には興味を示さない。
今では大人たちが変わってかがり火の行事を受け継いで守っています。


小学校の先生には、好かれ嫌われかたが激しかった。
子供の時には何故か理由が分からなかったが、大人になって分かったことは
多分私の父親のせいだと思う。
父親は当時町の有力者の一人だったので、味方も多いが敵も多かった。
父親に好意を持つグループに属する教員は、いろいろ面倒を見てくれたようだが
そうでないグループに属する教員は、私を餌食にしたたのだと思う。
好意を持つある先生は、家まで押しかけてきて勉強を押しつけてきた。
また別の先生は、同じ姓の同級生がいたが、いつも比較されて悔しかった。
名前を呼ぶ時もあちらはニコニコ顔で「ちゃん」付け、こちらはしかめっ面で呼び捨てであった。
しかし、勉強の嫌いな自分にとっては、どちらも疎ましかった。
子供心にも、自分をもっと自由にしてほしいと感じていました。

多くの先生はいい先生でした。
夏休みに遊び惚けて2学期始まりの日に、夏休み帳を白紙で提出したことがあった。
怒られることを覚悟していたが、白紙の夏休み帳を見たその先生
いきなり大爆笑して、教室中も大爆笑!
先生曰く「あ〜〜よしよし」
おとがめもなく、いい時代でした。