自分史

 

誕生から終戦まで

昭和15年、日中戦争はまだ続いており、日本とアメリカの関係も極度に緊張していた。
そんな時代の中で、神武天皇即位を元年として2600年目を迎えたとして
日本国中「紀元節2600年」を祝う祝典が華々しく開催されてた年。

国威高揚した日本の国中、翌年には日米開戦を迎えることになる。
そんな緊張した日本の世相の8月25日、自分は生まれた。

当時は産婦人科などなく、自宅分娩が普通だった。
産婆さんは自分の同級生でもあり、仲のよい○○君のお母さん。
余談だが、その友達の妹さんは、有名な書家の金沢翔子さんのお母さん。

田舎の小さな造り酒屋の次男坊として生を受けた自分、何の不自由なく、幼少期を過ごしたようだ。
当然のことながら、物心つくまでのことは、分からない。
父親は戦争にかり出されて出兵時の写真はあり、自分は父親の膝の間にチョコンと写っている。

自分は5人兄弟の3番目だが、まだ3人だけだが、下の妹はこの時は身籠っていたのだと思う。
いちばん下の妹は父親が復員してからの子供ということになります。

この貴重な写真をペンでいたずら書きしたのは、自分であった。
何でこんな悪戯したのか分からないがそこが子供、怒られたので覚えている。

写真の時の記憶はないが、松尾駅に見送りに行き、蒸気機関車の車輪の圧倒的大さに
感動したのを何故だか鮮明に覚えている。

戦争末期の頃には米軍が九十九里浜から上陸してくるとのことで、日本の軍人さんが
各戸の納屋や物置小屋に宿泊していた。

我が家には離れがあったので、軍人さんの上の位の人たちが、泊まっていた。
毎朝近くの広場でトランペットを吹いて朝礼をしているのを遠くから見て、カッコイイなと思った。

父親は戦争に出兵して留守で、何処の家も女子供ばかり。
日本の軍人さんとは言え、皆怖がっていた。

戦争の記憶としては、祖母と畑にいたら、米軍の飛行機に見つかり、機銃掃射を受けて命拾いしたこと。
近く軍用飛行場があったせいか?飛行機同士の空中戦を見たこととか、裏山に防空壕を掘って
何度か隠れた記憶もある。

東京が大空襲にあって、お札の燃えたのが空から降ってくるとか、そんな馬鹿げた噂話が
巷には流れていたのを思い出す。

丁度その頃の写真、上の妹が生まれた直後のものらしい。
母、兄、姉そしてお婆ちゃんの写真である。

自分は前列真ん中、3〜4歳の頃だと思う。
姉が7歳、兄が11歳位のの頃。

抱かれているのは戦中に生まれたばかりの妹です。
父親は出兵していたので写っていない。
それにしても、後ろの大人二人は誰だろう???

終戦の日の記憶は、さだかではない。

戦後裏山に登ると、兵隊さんが堀った塹壕 が無数に張りめぶさられていて、子供たちの
格好の遊び場所であった。

5歳位だっただろうか。
夜中にいきなりたたき起こされて、知らない男の人が現れて、自分をいきなり抱き上げてきた。

父親が兵隊から復員してきたのだ。
出兵した時期に父親の顔を忘れていた自分には、それは恐怖でしかなかった。

戦後の記録はこちらですが現在作成途中です